「日本とウガンダを繋いだ綿の絆」

「ウガンダの父」と言われた日本人

大学を卒業してすぐに父から「大学卒業記念に一人でウガンダへ旅行したらどうだ」と提案を受けた私は、ランナーとしての頭を切り替えるため、二つ返事でウガンダへ行く決心を固めました。」それが、私にとっての人生2度目のアフリカ旅であり、私自身の人生を変える大きな転換期となりました。
ウガンダへ到着すると、柏田さんが直々に空港まで迎えに来てくれていました。「よく来たね。君が奥君だね。箱根駅伝見たよ。すごかったね。」と柏田さんは、初対面の私にそのように話しかけてくれました。
「初めてのウガンダを思いっきり楽しんで帰りなさい。」そのように話を続けてくれた柏田さんは、そこからスマイリーアースとの取り組み、またそのきっかけについてゆっくりと私に語ってくれました。柏田さんはその日、私に夜12時を過ぎるまで熱い想いを語ってくれました。そんな柏田さんの熱意と生き様に心を打たれた私は、ウガンダオーガニックコットンとタオル作りに人生を捧げる決意を固めました。

紡績を学び、綿を知る

ウガンダへの卒業旅行から帰った私は、老舗紡績メーカーで糸作りを学ぶことになりました。「ウガンダオーガニックコットンの真の価値」とは、どんな価値なのかを知るきっかけを与えてくれた紡績の恩師である本間さんと近藤さんは、紡績に半世紀以上携わってきた経験を持つ職人の中の職人で、私に「様々な地域で育つ綿には、様々な特徴があり、その特徴にあったものづくりを行えてこそ、ホンマモンの職人である。」という教えを2年間の期間に叩き込んでくれました。
アメリカ・インド・エジプト・トルコといった様々な綿花を扱う紡績会社であったため、私は様々な国の綿に触れることができました。そんな中で、ウガンダのオーガニックコットンは独特の温もりをもった綿花であることに気付きました。
そんな気付きをスマイリーアースに持ち帰り、タオル製造に生かす技術開発に父と共に打ち込みました。

素材を知る努力

私は、紡績会社に通いながら度々ウガンダへ訪れウガンダオーガニックコットンが栽培されているウガンダ北部地域へ足を運びました。
ウガンダ北部は2007年頃に内戦が終わった地域で、国際協力機関などもまだまだ入り込んでいっていなかった2011年頃から私は、現地農家さんやジンニング(種取)工場で働く労働者と向き合い始め、ウガンダオーガニックコットンに関わる人々と、そしてウガンダオーガニックコットンが育つ地域を「知る」ということを重ねることでウガンダオーガニックコットンという素材を知っていくための努力を重ねてきました。

綿で繋がる縁を通じて分かち合えた「心」

私は、柏田さんに一つだけ褒められたことがあります。それは、「ウガンダの人達とほとんど気を使いあわずにコミュニケーションをとるところ」です。実は私には、箱根駅伝で各大学のエース級が集う花の2区を疾走するアフリカ人選手に対するとてつもない憧れといった心が、学生時代まで続けた陸上競技生活の中で備わっており、そんな憧れの存在と同じ飯を食えるという喜びがウガンダの人々と関わる中でずっと感じながら生活をしていました。

ウガンダへ通うたびに繋がっていく縁は、私に多くの事を教え、また私がウガンダを第2の故郷と心の底から感じるようにまで、私の心を包み込んでくれました。

国の国際即戦力インターンシップ事業

2013年に私は、大きなチャンスを掴みます。経済産業省が国の国際即戦力となる若手を育てるためのインターンシップ制度を2012年よりスタートさせ、2013年で2年目を迎えていました。私は、「これは、まさに自分のためにある制度だ」と思い、勇気を出して応募してみました。私は提案型での応募で、柏田さんが経営する「PHENIX LOGISTICS社」でのインターンシップを希望し応募したところ、見事採択され柏田さんの元での3か月間のインターンシップが始まりました。私は、苦境となっていた柏田さんの会社を何とか立て直せないか知恵を絞り、通っていた紡績会社で学んだ紡績技術をPHENIX社に合うようにカスタマイズしウガンダへ持ち込みました。結果的に、PHENIX社がこれまでできなかった太い糸の生産が可能となり、柏田さんにも喜んでもらうことができました。
この国際即戦力インターンシップ事業で得た経験は、技術移転による喜びの他にも、柏田さんが紹介してくれた様々な政府関係者とできた繋がりへの喜びも、後の私の大きな経験に、強く影響をもたらすことになります。

柏田さんの引退

2015年、柏田さんは高齢による経営者としての限界を感じ、引退することを決断されました。私はその頃、常に柏田さんに頼りウガンダでの活動を行っていたため、柏田さんの急な判断に驚きと今後への不安を抱いていました。そんな中、ウガンダ共和国ムセベニ大統領が日本へ公式来日する予定となり、駐日ウガンダ大使のご意向で、急遽「赤坂迎賓館」で柏田さんの引退式を執り行うこととなりました。その予定が決まった時に、私は柏田さんから「私の後継として大統領へ奥君を紹介する。」と告げられ、あたふたしたまま当日を迎えました。ムセベニ大統領は久しく逢えていなかった柏田さんを見るなりハグをして、柏田さんも涙を流しながら大統領との再会を祝福した。そして、柏田さんは私を自身の後継として大統領へ紹介しました。大統領から「君はいくつだ。」と聞かれた私は「25」と答えました。大統領は「若いね。君の頑張りに期待する。」そう私に告げ、互いの再会を誓い合いました。

ジュリアス オネン事務次官

柏田さん引退後、私はすぐさま国際即戦力インターンシップ事業の際に柏田さんから紹介してもらっていたウガンダ貿易産業協同組合省事務次官のジュリアス・オネンさんに逢いに行きました。オネンさんは、私を見るなり「カシワダジュニア」と呼び、柏田さんから預かっていた手紙を読んでくれました。そして、私もオネンさんと共にやってみたいと思う夢をオネンさんに話してみることにしました。
私がオネンさんに話した夢は「自身の故郷であるタオルの町 泉佐野市と、ウガンダオーガニックコットン産地であるGULU市を繋ぎたい。そして、柏田さんの会社も従業員の方たちと力を合わせて継続したい。」というものでした。オネンさんからは、「Very Good すぐに、その計画を進めよう。」という言葉をもらい、私は大きな使命感を心に抱きながら、また柏田さんがいなくなって寂しくなった心の穴を塞ぐように、一心不乱にオネンさんと共有できた夢の実現に走り出しました。

オネンさんとの夢に向かって

オネンさんと交わした夢の実現に向かって、まずやり始めたことは柏田さんの会社PHENIX社の現状を把握することからでした。柏田さんが抜けたPHENIX社は、まさに頭をとられた体のように全く機能しておらず、労働者の不安もピークに達していました。そして、同時にPHENIX社の売却話も浮上していたため、何をどうしたらいいのか見えなくなってしまっていた私は、オネンさんに相談しました。オネンさんは「PHENIXはなるようになる。だから、できることから頑張ったらどうだ。」そう私にアドバイスをくれました。私は、日本へ帰国しJICAへ相談に行きました。JICAは国際協力機関として何ができるか、またどんなスキームを有しているかを説明してくれ、私はその中から手段を考えることにしました。
そして、中小企業海外展開支援事業「案件化調査」という事業に応募し採択を受け、ウガンダへスマイリーアースが開発したタオル製造技術を持ち込み、ウガンダ国内でのタオル製造の6次化を目指すための調査を実施することとなりました。

日本とウガンダを繋ぐきっかけ

JICAと共に実施した案件化調査は、順調に進み、私は中間報告の際にウガンダから事務次官他4名の高官を日本へ招聘したいとJICAへ持ちかけました。JICAの職員の反応は、「事務次官級の高官がこのような案件の話など受けないだろう。」という反応であったのですが、私はオネンさんを信じていました。再度ウガンダへ戻りオネンさんに相談してみると二つ返事で日本行きを承諾してくれました。そして、オネンさんから一つの提案がありました。それは「GULUの市長と農業組合の組合長も一緒に日本へ連れて行こう。」という内容でした。オネンさんは、GULU市の農業協同組合長へ電話で連絡を取り、翌日の早朝にオネンさんの事務所で3人で逢う調整を整え、翌日の朝には私は組合長のオユギさんと握手をしていました。

タオルの町と綿の町を繋ぐ架け橋に

オユギさんは、すぐさまGULU市の市長へ連絡を取り、私を連れて逢いに行く約束を取り付けました。私は一度日本へ帰国し仕事をこなして、すぐさまウガンダへ戻りました。オユギさんは、GULU市の市長へのアポイントを取り、私を待ってくれていました。GULU市の市長との面談は、とても話が弾み、私がウガンダから招聘するウガンダ代表団がその場ですぐに決定しました。

ウガンダ代表団の日本へのアテンド

オネン事務次官とGulu市長を含めた5名のウガンダ代表団の受け入れが決まり、私は早速日本国内を走り回りました。まずは、泉佐野市役所へ掛け合い訪問団受け入れ時に歓迎頂きたいことをお願いし市長より直々に承諾を取り付けました。その後、オネンさんから頼まれていた方面へのアポイントを取得し、私はウガンダ代表団の受け入れ準備を着実に進めました。そして、御一行が来日されオネンさんと掲げた夢を実現させる第一歩を踏み出しました。この来日の目的は、「タオルの町とコットンの町を繋ぐこと」まさに、泉佐野とGuluを繋ぐことでした。泉佐野市への表敬訪問を滞りなく行い、その晩に催されたウガンダ訪問団歓迎レセプションで、大きな動きがありました。泉佐野市長が、年内にウガンダへ行くことを代表団に約束し、オネンさんも市長のウガンダ訪問時に国賓級でもてなすことを約束したのです。レセプション終了後、オネンさんと私はコーヒーを飲みながら、共に掲げた夢が動き始めたことを祝福し合いました。

泉佐野市長御一行のウガンダへのアテンド

ウガンダ代表団がウガンダへ帰国し、数か月がたって泉佐野市長一行がウガンダへ行く日程が決定しました。私は、ウガンダ政府と泉佐野市の間を繋ぐ調整役を担い、泉佐野市長が安全にかつ有意義なウガンダ渡航となるようにスケジュールの立案からビザの手配、そしてセキュリティーの調整までを徹底的にオネンさんと調整しました。これは、まさに私にとってそれまで経験した事が無いような大役で、「両国の未来の関係性に大きな影響をもたらす」であろうという事を実感しながら向き合った案件となりました。オネンさんのフォローも受けて実施した泉佐野市長のウガンダ訪問は、Gulu市への訪問とGulu市長との対談に加えウガンダ共和国ムセベニ大統領との面談も叶い、大変有意義なウガンダ訪問となり、泉佐野市とGulu市の友好親善関係が急速に高まるきっかけを作る事ができました。また、泉佐野市長からムセベニ大統領にあてた心願により、泉佐野市は2020年東京オリンピックパラリンピック大会時のウガンダ選手団受け入れホストタウンとして名乗りを上げ、大統領がそれを了承したことで日・ウ間の友好親善の歴史にも大きな前進をもたらしました。

ウガンダ政府特別任命コーディネーター就任

泉佐野市長のウガンダ訪問のアテンドを終え、日本へ帰国してから数週間がたった頃に駐日ウガンダ大使から電話が入りました。大使は「奥さん、日本とウガンダを繋ぐコーディネーターとなって私に協力してくれないか?」と私にお話しされました。私は、そんな大きな役目を自分自身が背負っていけるか不安に感じたのですが、大使からのお願いということもあり有難くウガンダ政府特別任命コーディネーターの職を受けることに致しました。私は、翌週に駐日ウガンダ共和国大使館に出向き大使からの委任状を受け取り、正式にウガンダ政府特別任命コーディネーターに就任致しました。ウガンダ政府特別任命コーディネーターに就任した私は、泉佐野市が内閣府オリンピックパラリンピック事務局が選定し登録する「ホストタウン」事業への申請を行う際に、コーディネーターとして申請書作成に必要なウガンダ政府との調整などを行い、泉佐野市がウガンダ共和国の第1のホストタウンとして正式登録されたことに貢献することができました。これは、日ウ間の歴史上とてつもなく大きな友好親善関係構築の一歩となり、関係者全員が喜びを分かち合いました。

泉佐野市代表団のウガンダへのアテンド

ウガンダ代表団の本舗受け入れ活動、そして泉佐野市長のウガンダ訪問に加え、2020東京オリ・パラ大会時のウガンダ選手団受け入れホストタウンとしての泉佐野市の正式登録によって、泉佐野市とGulu市は日・ウ間の歴史上初となる自治体間の友好都市提携を締結することを決定し、泉佐野市はウガンダへ泉佐野市代表団を派遣することを決めました。私は、その泉佐野市代表団のウガンダでのアテンドを任せられ、コーディネーターとしてウガンダ外務省と連携し調整にあたりました。Gulu市で行われた泉佐野市とGulu市の友好都市提携締結セレモニーでは、ウガンダ共和国首相をはじめ大臣やGulu出身の国会議員が参列しました。日本側も、泉佐野市代表団に加え事前に調整していた日本アフリカ友好議員連盟の三原朝彦会長代行や山際大四郎事務局長の参列も実現し、自治体間による友好都市提携を実質的に「国と国の友好親善関係の発展」に繋げた一大セレモニーとすることを実現できました。

第2のホストタウン「立科町」の誕生

泉佐野市が2020東京オリ・パラ大会時のウガンダ選手団受け入れホストタウンと正式登録され、泉佐野代表団がウガンダへ派遣された際に、泉佐野市はウガンダ教育スポーツ省とオリンピックパラリンピック大会に向けた「連携協定」を締結しています。この提携を行った際に、ウガンダ陸上競技連盟からの提案で「陸上中・長距離種目の選手団は高地での合宿を希望したい。」という申し出をコーディネーターとして受けていたこともあり、私は学生時代に度々夏合宿で足を運んでいた長野県の立科町へウガンダ選手団を受け入れる第2のホストタウンとならないかという打診を行いました。その時に立科町の町長をしていた米村さん(元立科町長)から立科町でウガンダの陸上中・長距離種目の選手団を受け入れたいというお言葉を頂き、立科町がウガンダの第2のホストタウンとして正式登録されるための調整に早急に取り掛かりました。私は、ウガンダ初のオリンピック金メダリストである友人のスティーブン・キプロティッチ選手(ロンドン五輪マラソン金メダリスト)と連絡を取り合い、キプロティッチ選手が福岡国際マラソンのために来日するタイミングで立科町を紹介し、立科町がウガンダの第2のホストタウンとなる「白羽の矢」を立てることを計画し、当時の米村町長と共にその計画を進めました。キプロティッチ選手は約束通り立科町を訪れ、立科町は内閣官房オリパラ事務局へのホストタウン登録の申請を行い正式にウガンダの第2のホストタウンとして正式登録されました。

立科町代表団のウガンダへのアテンド

立科町がウガンダの第2のホストタウンに正式登録されたことを受け、立科町はウガンダへ代表団を送ることを決定しました。立科町からウガンダへ派遣する代表団の現地アテンドを依頼された私は、泉佐野市の時と遜色の無い「国賓級」の扱いで立科町がウガンダへ受け入れられるように、コーディネーターとして調整を行いました。ウガンダへ入った立科町の代表団は、ウガンダ共和国教育スポーツ省そしてウガンダオリンピック委員会などとの連携協定を締結し、最大の歓迎を受けました。そして最終日には、予定していなかった大統領との面談も叶い、日本とウガンダにおける更なる友好親善関係への発展に大きな期待と注目が集まる案件として両国間政府が認識する出来事となりました。

第1回在外公館長表彰を受賞

私は、「ウガンダの父」と讃えられた柏田雄一さんの意志を継承し、またその意志を貫き、日本ウガンダ間の友好親善関係の発展のために全てを捧げてきた自身の活動「タオルの町(泉佐野市)とウガンダオーガニックコットンの町(Gulu市)の友好都市提携」「ウガンダ共和国へ2つのホストタウン(泉佐野市・立科町)を繋げたこと」に対し、在ウガンダ共和国日本國大使館 特命全権大使から労いのお言葉と共に、第1回在外公館長表彰というとてつもなく名誉な賞を受け取らせて頂くこととなりました。
私にとって、大使から賜ったお言葉は、柏田雄一さんやオネンさん、そしてオユギさんの他、様々な人々と紡いだ縁「日本とウガンダを繋いだ綿の絆」によって実現してくることができた奇跡の賜物であるということを私自身に再認識することを教えてくれました。
そして私は、箱根駅伝を走ってから約8年の歳月をかけて積み重ねることができた自身の礎に、今後更に大きな夢を描いていきたいと思えるようになりました。
私はこれから、これまでに自身が繋いできた「日本とウガンダを繋いだ綿の絆」を、これからの未来の日本とウガンダを繋いでいく次世代の若者へと、「受け継いできた意志」を繋いでいかなくてはならない。その責任が私にはある。そのように考えています。
大きな礎の上に立つ、大きな城、そして広がる豊かな城下町を夢見て、これからも大志を抱き、責務を果たしていきたい。そのように思っています。